ヒデリンの中途失明 その時

そのヒステリーなヒストリー


 


世の中ってのは 五感、五体が満足である事が基準となって動いている。
それに対し 特に疑問も持たずに
ごくごく普通に生きてきた。

基準であるものの何かひとつに不具合が生じた時
世の中は 変わったものになってくる。
その価値観や人生観が別のものとなり
これまでに自分で築き上げてきた事の多くも意味を持たなくなってくる。
自分なりに 時間とカネと労力をかけて積み上げてきたものが
足下から ガラガラと音を立てて崩れてしまうのだ。

不幸にして 人が人生の途中で 重い障害を負った時
目前に ぶ厚い2つの壁が立ち塞がる。
1つは 喪失感、疎外感、無力感などの内なる自己の壁。
もう1つは
差別や偏見、行動の制限といった外からの社会的な壁である。

「ヒデリンの中途失明 その時。」では
この2つの ぶ厚い壁の行方を追うべく
医療機関での関わりを縦糸に
そして その時々の感情を横糸として 編んでみた。
アンダに読んで欲しくて編んだ
なんつって。



・・・・目次・・・・

  
場当たり的に 「起」「承」「転」「結」にわけて編んだ。
アンダのために編んだ。
って またかい。





[第一章・起]

 

「白内障ですね。」
眼科医が 短く言った。
ふいに 今まで肩にぶら下がっていた何かが
ストン!と 落ちた。
なーんだ 私は白内障だったのか。
白内障と言えば 今や日帰り手術も可能だと言うではないか。
ふっ‥‥‥。原因がわかれば シメタもの。
これで やっと この見えづらさから開放されるぞ。
たちまち 目の前の 霧が すっキリと晴れていくような気がした。

私が 眼に異変を感じたのは 2002年 娘が二十歳を迎えた年である。
その年の3月には 娘の卒業式があった。
ハッキリと「おかしい」と自覚したのは その頃からである。
なんとなく 見えづらい。
昼なのに 夕暮れのように 薄暗く
なのに やたらと まぶしさを感じる。

多少 疲れ気味なのかも知れない
明日になれば いつもの世界が戻ってるだろうよ
くらいに 最初は軽く考えていた。

娘の卒業式には私も出席し
卒業式の後 娘と別れてから 同級生に会い
軽くワイングラスなんぞを傾けながら
いささか気になっていた心境を同級生に打ち明けた。
「最近 なんか見えづらくてさぁ。」
すると同級生も
「私もだよ。私達 ぼちぼち老眼かも。」
などと 笑い飛ばしたものの その後も 症状は芳しくなく
いたたまれずに眼科の戸を叩いたという次第である。



「さしあたり 白内障の点眼薬で 様子をみましょう。」
と言った眼科医の指示を忠実に守っていたのだが
点眼薬は 一向に効き目がなかった。
どころか 日増しに 見えづらくなっていく。

数日後 白内障の点眼薬が切れ
眼科を再受診。

「白内障ですね。」
と カルテを見ながら言ったのは
前回とは違う眼科医だった。
女医で ナニゲに インテリっぽかったが
ざっくばらんに「なにしろ まぶしくて‥‥‥」と訴えると
「水晶体に光りが乱反射して まぶしく感じるのでしょう。」
と 女医はやはりインテリっぽく説明に入る。
ふぅん‥‥‥そんなモンかなぁ‥‥‥
ナニゲに 釈然としない感情に つきまとわれつつも
ひとまず納得し
ふたたび 白内障の点眼薬を受け取り 帰宅した。



やっぱり 改善しない。
私は 本当に 白内障なのだろうか?
ジワリと 不安が押し寄せてきた。
これは 単なる視力低下などではない
という 勘のようなものが横たわる。
このまま 白内障の点眼薬を使用してて良いのだろうか?
ふたたび 暗い霧のようなものが忍び寄って来た。

白内障の点眼薬が 切れたこともあり
再々度 眼科を受診。
今度の眼科医は チャゲアスの Askaに似ていた。
その日 私は アスカに訴えた。
「どうも おかしい。もっと詳しく検査をお願いしたい。」
「じゃぁ‥‥‥」と アスカはゆっくりと
「視野の検査をしてみますか?」
ってな訳で その日 私は生まれて初めて視野の検査を受けたのだった。

しばらくの後 ふたたび診察室に入った私に
アスカは 視野検査の結果を見ながら 言いづらそうに
「うーん、ちょっと 気になる結果が出てるんですよ」と言う。
ふいに ドキドキしてきた。
「精密検査を受ける必要があります。」
ドキドキに不安が加わった。
精密検査という言葉が ズシリと重く のしかかる。
やはり 白内障ではなかったのではないか。
一瞬 パニくったが 気をとりなおし
どんな事が原因として考えられるのか
アスカに尋ねてみた。
「検査をしてみないと なんとも言えないけど。」
と 前置きし こう続けた。
「原因は 脳か 神経か あるいは 網膜か‥‥‥。」





[第二章・承]

 

アスカからの紹介状を持って
T大学病院を受診したのは
5月の連休明け まもなくの頃だった。
視力、視野、眼圧など一般的な検査に加え
CTスキャンや蛍光造影剤による検査も受けた。
結果 脳と神経には「異常なし」と認められたのだった。

診察室に入ると
先刻 受けた蛍光造影剤による眼底写真が
すでにプリントアウトされてあった。

「どうぞ」と言った担当医の視線の先にある椅子に腰を下ろし
改めて担当医と向き合った時
意識の中を 何かが駆け抜けていく。
「誰かに似てる。」
と思った瞬間 担当医の どっしりした風貌に
ドリフターズの 今は亡き荒井注のイメージが重なった。
ふっ‥‥‥
目を合わせたままでいたら
「なんだバカヤロー」という あの名セリフが出てきそうな気がして
それとなく視線を逸らした。

患者の頭の中で 荒井注に似てるなどと
あれやこれや詮索されていようなどと夢にも思ってないであろう医師が
「夜は ちゃんと見えてますか?」
と 意外な質問をしてきた。
え?
「夜は‥‥‥」って 何を言いよる。
だって あーた 昼だって見えづらいってのに
夜が ちゃんと見える訳がなかろうぞ。
つべこべ言わずに 早く治してくりゃれ。
と 心の中で訴えてる私に荒井注は
淡々と宣告したのだった。
「おそらく 網膜色素変性症とみて間違いはないでしょう。」

ぬぁにぃ。
もうまく しきそ へんせいしょう‥‥‥
それが 私の病名なのか。
って 白内障は どーしたのだ?
確かに この見えづらさは尋常ではなく
白内障などではないと うすうす感じており
ある程度の事は 覚悟していた。

物事 原因があって結果があるものだ。
その原因を突きとめ 治療をすれば
たとえ完治せずとも 回復に向かう。
そのための病院であろう と考えていた。

荒井注の口から発せられる言葉は ことごとく 私を裏切るものばかりだった。
「原因不明である。」
「治療方法がない。」
「特定疾患に指定されている。」
「治療費は公費負担となる。」
「社会的な制限を受ける。」等々
負の要素をたっぷり含んだ言葉が次々と 落ちてくる。
頭の中が ごった返した。

どういう事だ。
目の前の医師の言う事が正しいとするならば
この先 私は どうなるのだろう。
時間の経過とともに 不安と苛立ちが侵入してくる。
耳慣れない病名に狼狽えてる患者に
事もなげに喋りまくってる医師の無神経さにも 苛立ってきた。
と言うより もしかしたらこれは
何かの間違いかも知れない。
そうだ、こうしてはおれん。
セカンドオピニオンだ。

ってな訳で
県立病院で看護士をしている義妹に
これまでの経緯を話し 相談してみた。
その道の義妹は言う。
「うーん、網膜なら C大病院かなぁ。」
そして 義妹のアドバイスを頼りに
私は C大病院の門をくぐったのだった。





[第三章・転]

 

何の紹介状も持たずに C大病院の受付にアクセスしたのは
T大病院を受診してから およそ1ヶ月後の 6月上旬の事だった。

言うまでもないが この時点では
問診票などは 自力で記入出来ていた。
日ごと 悪化していく症状に付いていけず
見えづらくはあったが それでも視力は両眼で0・7程あり
視野の方も トイレットペーパーの芯から覗くくらいには見えていた。
が 日々 自覚できるほどに症状は進行していた。
なんせ TVを見ながら 壁を
サワサワっと出没するゴキブリなんぞ
家族の誰よりも早く発見していた私だったが
自分の足元を這い回るゴキブリを目で追う事すら難しくなるのに
半年を待たなかったほどである。

C大病院でも ほぼT大病院と同じような検査をしたが
新たに 感染性の有無を調べる血液検査と
ERG(網膜電位図)の検査が加わった。

「どうかT大病院の診断は 間違いでありますように‥‥‥」と 願った。

「おそらく T大病院の見立てに間違いはないでしょう。」
と 事務的に 診断結果が宣告された。

口頭では「おそらく‥‥‥でしょう。」
などと曖昧な表現だったが
カルテには しっかりと
「網膜色素変性症」と記されていた。


網膜色素変性症(RP)だが
眼科医の間では 基本的に
両眼性で遺伝子疾患であり そして ゆっくりとした進行性のものとされている。
自覚できる主な症状として 
視力低下、視野狭窄 そして夜盲症がある。
T大病院の荒井注が
「夜は ちゃんと見えますか?」
と質問したのは この事だったのかと 後に納得がいった。
なるほど‥‥‥
確かに 症状だけを見れば RPとも考えられる。


自分的には どうにも腑に落ちない事が多かった。
第一 私の身内にRP患者はいないし
第二に 進行が あまりにも早すぎる。
更に言えば左右の症状に違いがあったし
網膜の色素の沈着もみられなかった。


後に 担当医から漏れ聞いたのだが
当初 担当医たちは こう思っていたようだ。
「おそらく そのうち進行が止まるだろう。」
「おそらく そのうち 網膜の色素が沈着してくるだろう。」
「おそらく 本人が知らないだけで 血縁関係にRP患者がいるのではないか。」
「おそらく 失明することはないだろう。」
「おそらく 神経質になりすぎて 進行が早いと思い込んでいるのだろう。」など
など
「おそらく‥‥‥だろう」で固められたものだったが
結果的に そのどれもが 的を射てはいなかった。
思うに「網膜色素変性症」という診断は
見切り発車だったのかも知れない。


患者が 異議を唱えたところで 病名が変わるはずもなく
ましてや 治療という領域に入るはずもない。
RPは原因不明で治療方法のない病気とされているのだ。。
治療をすると言うことは つまり
誤診を認めるという事になりかねない。
何げに 病院のエゴという側面を見る思いがした。


初診日から数えて三ヶ月ほどは
1〜2週間に一度のペースでC大病院に通院していたのだが
RPという診断名が下って以降は
多くのRP患者が そうであるように
私の場合も 半年毎の通院で 経過をみるという事に落ち着いた。

この進行具合で 半年後の予約というのでは 
どう考えても長すぎると思ったが
担当医は 私の心を見透かすように言った。
「改善する事は難しいけれど 失明するような事はないから 大丈夫。」
この時「失明することはない」という言葉に 私は いささか安堵した。
あるいは そうかも知れない。
もしかしたら 不安が 進行を速めているのかも知れないと思った。
よし。しばし 担当医の言葉を信じてみよう。

症状の改善が無理なら
残存機能の進行を防ぐべく努力をしてみよう。
進行が鈍くなれば この見え方にも慣れ
何とか生活能力は保てるかも知れない。
ってな訳で 心身共に安定し ゆとりが持てるくらいの目標を
2〜3年後と定め 「RP」と ゆっくり向き合ってみようというふうに気持ちを固めた。

現実は 厳しい状況へと むかっていたのである。

半年後の C大病院での受診日に
「おっかしいなぁ‥‥‥。」
慌てたのは 担当医である。
「なんで こんなに進行が速いんだろう?」 
それは こっちが ききたいくらいだ。
この日の視力検査では 左岸の視力が ほとんど出ていなかった。
右眼は 視力は まだ残っていたものの
色覚が失われかけており
ピンクや紫といった同系色などは区別がつかず
緑色が茶色に見えるといった現象も起きていた。
日によって 濃い霧がかかったような乳白色の世界だったり
日中でも 薄暗闇の世界だったり
まぶたの内側に 突然発光体が現れたりという様々な症状に悩まされ
光は まぶしくて痛く 目を開けてるのもツライという地獄の日々が続いていた。
日ごと 不安は つのる。
左岸は 失明寸前であり
残る右眼も キビシイ状態に陥っている。
もはや 担当医の言葉を信じる云々のレベルは超えていた。
「おっかしいなぁ」で片付けられたのでは たまったものではない。
この間に C大病院だけでは心もとなく 他の医療機関も いくつか受診した。

「当院では 専門的な医療機器の設備がなく お力にはなれないと思います」と

「C大やT大病院以上の事は出来ないかもしれません」などと
消極的な意見が多かった。
中には「失明寸前で いきなり受診されても‥‥‥。」
と あからさまな反応の病院もあった。

現代医療の限界を感じた。
だが 諦める訳にはいかない。
数ヶ月前までは 裸眼で活字が読めていたのだ。
色だって しっかり識別できていたのだ。
「なんとかしてくれ」と私は執拗に食い下がった。
C大病院の予約日など無視し この危機的状況を訴え 頻繁に受診した。

次第に 担当医の口数が少なくなっていく。
診察室には 重い空気が流れた。
時に 沈黙は雄弁である。
この沈黙は つまり もはや なすすべがない事を物語っていたのだった。





[第四章・結]

 

 眼の異変に気付き およそ2年後 視力を失った。

何故 こんな事になったのか。
何が いけなかったのだろう。
それとも これは 何かの酬いなのか。
何故 何故 何故‥‥‥
意識の中は「何故」ばかりの毎日。

しだいに 外出が億劫になった。
人に会うのが面倒になり
自宅の庭に出る事すら ためらわれるようになった。
眼が見えないという不自由、恐怖感、絶望感、将来への不安‥‥‥
現実の自分と 過去の自分とのギャップは壁となり
そして いつしか 社会生活との間にも 分厚い壁が 立ちはだかっていた。

幽閉生活は 続く。
もう二度と 物を見る事は 出来ないのだろうか。
一人で ぶらりと街に出て
気ままに 人混みに身をまかせたり
気の置けない友人たちとの おしゃべりやショッピングは
もう過去のものでしかないのだろうか。
海辺で 泳いだこと
遊園地で 遊んだこと
映画館で 映画を見たこと‥‥‥
楽しかった事が 走馬燈のようにめぐる。
もう一度 もう一度
空を 海を 家族の笑顔を 見たい‥‥‥
だが その思いは叶う事なく 深く暗い意識の底へ沈んで行った。

そんなある日
RP仲間のネッ友から 電話があった。
東京で 気のあった仲間に会うんだけど 一緒に どう。
というものだったが この1本の電話が
幽閉生活にピリオドを打つきっかけになろうとは
この時は 知る由もなかった。
ただ単純に 仲間の有り難さを感じただけだった。
なにせ 単独での行動は無理なのだ。
迷惑をかけるだけである。
一度は 誘いを断った。

「東京に出て来さえすれば 仲間が きっちりサポートするから。」
ネッ友の いささか強い語調に はっとした。
もしかしたら 私は 誰かの こんな言葉を待っていたのではなかったか。
誰かが 背中を押してくれるのを待っていたのではなかったか。
気持ちが グラリと揺れた。
そして この時 社会への扉が ほんの少し開きかけたのだった。



「行く」とは言ったものの 目の前には現実の諸問題が山積していた。
まずは 交通手段である。
この時は まだガイドヘルパーを利用できる制度がある事など知らなかった。
なので 誘導の方は たまたま 春休みで帰省中の息子に
そして 滞在中は 当時 都内に住んでいた娘にと それぞれ頼る事にした。
なにしろ今回は失明してからの 本格的な初めての外出である。
不安ばかりが 先に立った。
階段を踏み外しはしないか。
駅のホームから 転落しはしないか。
戦々恐々である。
健常者なら なんでもない事が 障害者には大きな大きな壁となる。

乗りかかった船だ。
思い切って 一歩を踏み出してみよう。
そうして ヒデリン丸は漕ぎだしたのだった。





[最終章]

陽光ゆらめく ある春の日
息子に手を引かれ 私は 東京に向かった。
この日が 事実上の 白杖デビューの日でもあった。

歩行訓練は まだ受けておらず
歩行も 白杖の使い方もハチャメチャだった。
歩道を歩いていても
段差があるのではないか。
通行人や物に ぶつかるのではないか。
白杖が 自転車の車輪に巻き込まれはしないか。
全神経は足元と 白杖を持つ手に注がれ
歩道も 駅の階段も 果てしなく長く険しいものに感じられた。

同じような動作を繰り返すうちに
いささか余裕が出てきた。
街の空気が 伝わってくる
久々のシャバは その全てが 新鮮に感じられた。
コーヒー店の 挽き立てのコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
ケーキ屋さんの甘いクリームの香りが 胃袋を刺激する。
地下鉄の車輪の軋る音がする。
発射のベルが耳に届く
活気に溢れる街を歩きながら。
踏みしめるアスファルトから 大地の鼓動が響いてくるような気がした。
ふと「今 私は生きているんだ」という事を実感した。
この一瞬一瞬の「今」を 明日へ繋げて生きてみようか。
そうだ もう 過去にしがみつくのはやめよう。
もう「何故 自分が こうなったのか」を考えるのも やめてしまおう。
人間 先の事は わからない。
不幸な事態は 誰にだって起こりうる事でもあるのだ。
予測不能なもの そもそもそれが人生なのだ。
という考えが下りてきた時
ふたつの分厚い壁は クニャリと崩れた。


余談になるが
RP仲間との 飲み会の当日
「出てくれば きっちりサポートするから」と言っていたネッ友は
その日 とある公園で お花見をしていた。
と そこまでは良かったのだが 園内で迷ってしまい
待ち合わせの時間に かなり遅れて来たのだった
という事も付け加えておこう。

ってな訳で 背中を押してくれたネッ友には 感謝 感激 雨あられ。
まだまだ迷いも多く この先もまた新たな壁が立ちはだかる事もあるだろうが
壁は できるだけ作らないように努力しよう。
と つらつら考えながら
今日も 顔の壁塗りに余念のないヒデリンであった。


       
   

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